生きる意味


生きる意味はなんだろう?

そうゆう問いをみんな持つと思います。

その答えは、それぞれ違うと思います。

色々な答えがあっていいのだと思います。

どれが正解も間違いも、深いも浅いもないと思います。

1人の人の中でも、あるときはこうゆう考え、

数年先にはこうゆう考えということもあると思います。


わたしは以下のように思います。理屈っぽいですけど・・・

わたしは、意味があって存在しているのではないと思います。

順番からすると、人は存在する、次にその機能の一つの

認識が言葉、意味を用い、世界を作っている。

意味は二次的、二義的なものです。

ですから、意味の世界の中に自分の存在、世界、人生を

入れてはいけないと思います。

無限の生命、未知の生命の働きが、制約、制限されて

しまいもったいないと思います。人の小さな思考の中だけに

限定されてしまうのですから。

不自由さも生まれると思います。

わたしは、生きる意味を考える必要はないと思います。

考えても考えなくても、それを知っていても知らなくても

同じだと思います。むしろ考えない方がいいと思います。

いずれにしても、命は私を通して顕れています。

私を通して、あらゆる姿、様子として、この世界に

顕れ、表現されています。それが意味です。

命を表すこと、表現すること、それが生きる意味です。

ですから、生きる意味自体は必ずあります。

どうゆう意味があるか?については

たとえば、生きる意味は何だろう?と思ったとき、

それを問うこと、答えを出そうとすることが、

生きる意味です。

ご飯を食べるときは、色々な味を味わい、食べるのが、

その時の生きる意味です。

生きる意味を考えなくても、また知らなくても

生きているだけで、意味は充満しています。

自分の背後にある命は、大きな力、働きです。

人智を超えた不思議な力、叡智、調和と治癒力、

書ききれないほどの力、働きが顕れたものが、

この日常生活ですから、生活そのものは、

意味で充ち溢れているといっていいと思います。


時に、ふと、生きる意味はなんだろう?と思うことがあると思います。

そうゆうときは順調にことが運んでいる時ではなく、

逆風、壁、問題が発生しているときが多いと思います。

今の状況が、全体の流れの中からみてどうゆう位置にあるか、

全体を見渡せる視点から見ることによって、現状からどこに

向かえばいいかを決めようとするために問うのだと思います。

何らかの壁、問題があり、生き方・あり方を問うという

その流れそのものが、問う以前に起きてきている

その人の自然な流れだと思います。

問う以前に必要な動きはきちんと出てきていると思います。

その時その時の状況をしっかり把握し、そこにいると

次の一歩、一手は自ずから出る、わかるようにできていると思います。

心ははじめからわかっていて、あとはそれを感じ取るということが大事

なのだと思います。

うまく表現できませんが、全体像を把握できていなくても

今の状況で最善を尽くせば、自ずと自分の流れに従って生きている

ことになると思います。


生まれてきたこと自体の意味は、自分の外側には答えはなく、

その問いをずっと持ち続けていくと、いつの日か

ふっと心が応えて教えてくれるものと思います。

私にとって「生きる」とは、

それぞれ抱える闇をくぐり抜け、克服し明るい世界、光を獲得すること、

別の言い方をしますと、余分なものを手放し、完成されていた自分、

沢山の力、能力を備えていた自分、何の問題もない自分、を思い出すことが、

まず当面の目標ラインであり、そしてそこがスタート地点にもなり、

各人各様、解放された自由な自分を生きていく、自ら世界を創造し、

その創造された世界を自ら味わって生きていく、

そうゆう流れではないかと思います。