私とは何か? 1 


見ている者、聞いている者と表現されますが、正確には「者」という

特定できるものはありません。私の中心に「何か」がある、

特定できるものがあるように思いますが、中心には何もないと思います。

ただ、知覚する働きだけです。

知覚などの働きそのもの、意識そのものがだと思います。

見たもの、聞いたもの、味わったもの、感じたもの、考えたもの、

寒さ、胃の痛み・・・知覚を通して人は世界を知ります。

知覚にすべて集約されています。

知覚されたもの、内容は、すべて消えていきます。

記憶として残るものもありますが、

生じては滅していきます。跡形もなく消えます。

ですが、知覚しつづける働きは常に在ります。

有る無いの有るではなく、在ります。

常にある知覚、働き、意識が、だと思います。

般若心経の不生不滅、生じることもなく、

滅することもないのが、初めから在り続けるのが、

不垢不浄、汚いものでもなく、奇麗なものでもない、

浄不浄を超えたもの、不増不減、増えも減りもしない、

何一つ損なわれるもののないのが、だと思います。

肉体も思考も感情も意志も私ではないと思います。

私の肉体、私の考え・・私のと「の」が付きます。

ですからそれらは、わたしそのものではありません。

わたしとは、~であると規定できません。

~でないという表現や、意識というように規定できない

もの、形のないものとしてしか表現できません。

限定できない、無限ということでもあると思います。

わたしは命です。

今の最先端の科学でも、蚊一匹蟻一匹、命をゼロから

創り出すことはできません。命は人の力、人智を遥かに

越えています。その人智を遥かに越えているのが、

私たち一人ひとりでもあります。

人は、人智を超えた大きな力、働きを備えているのは

間違いないと思います。

人は無限の力、智慧、創造力、治癒力、調和の力・・

あらゆるものが備わっていると思います。

自分に向かって何かを問えば、必ず答えてくれます。

答えはみんな自分の中にあります。

知覚される内容は、みんな私が、この意識が作り出したもの、

創造したものだと思います。これが三界唯一心、三界唯心造。

自分で作って、自分で知覚していることになります。

これをしている意識は、個ではありません。

全てです。個でありながら全体です。

言い換えると、自我ではなく、自我など本来無く、

いのちそのものです。

わたしが意識だけであったら、平安、静寂・・・だと思います。

ですが、意識の周りに色々なものがくっついています。

信念、観念、価値観、負の感情、記憶・・・

それらが心を曇らせます。問題をつくり、苦を生みます。

それらは邪魔者、嫌われ者、悪者を演じてくれていますが、

本当は味方だと思います。人のために働いてくれていると思います。

苦の原因となり、本気で目を向けさせ、そしてその奥にある意識、本体

そのものに気づかせる役目を仰せつかっていると思います。

この世にあるものは、一見悪い、好ましくない、在ってはいけない

もののようなものも、実は全部必要なもの、良いもの、

人を善い方向へと導いてくれるものだと思います。