とりあえず前提を変える。1

日常の様々な出来事に対して、良いとか悪いとか、運がいい悪い、

幸不幸・・意味づけ価値づけをしながら、私達は日々生きています。

望ましくないことが起こったとき、自分を責めたり、人を責めたり、

運の悪さを嘆いたり、悲観したりすることもあります。

それはその出来事を「良くないこと」と

見なしたところから始まっています。

その出来事は、本来いいも悪いもない、中立のものです。

その出来事を「良くないもの」とすれば、

その延長には不毛な現実が展開されると思います。

その出来事を「良いもの」とすれば、

その延長には何らかの有益な現実が展開されると思います。

「良いもの」とすれば、運の悪さを嘆くこともないし、

悲観することもなく、人と対立することもなく、

自分を責める必要もなくなります。

それを良いものとするということは、

その出来事は自分のために用意された、必然的な

何らかの学び、気付きの機会と受け取るということです。

そこから何を学べるか?という視点で見ていけば、

様々なことが見えてくると思います。

自分の無意識にある気持ち、考え・・・色々と

気付けると思います。

出来事を幸不幸、運不運と自動的にジャッジしてしまいがちですが、

選択できることでもあります。

世の中には 幸不幸、運不運 があるという前提で生きていると

思いますが、「基本的にはすべて良いこと」という前提に

置き換えてみると生活に変化が起こると思います。

良い流れを感じられると思います。

期間限定で、試してみるだけでもいいと思います。

過去を振り返ってみたとき、大きな問題、ネガティブな出来事も

その時は苦しく大変だったけど、今思えばそれがあったから

今の自分がある、大事なことを学べたという経験を持っている人も

沢山居ると思います。

「日々是好日」という言葉もあります。

「基本的にはすべて良いこと」という前提 、

良いというと語弊が生じるケースもあるかもしれません。

決して悪いことではない、不幸ではない、不運ではない、

そうゆう意味でお考え頂くといいかもしれません。

「どう考えても不運、不幸としか思えない」ということでさえ、

その考えにひびをいれることはできると思います。


たとえば、ひとから嫌なことを言われたとき。

相手の本意はわからず、九割方悪意があるものと思われるときでも

確定でなければ、悪意はないものと見なしてかかわっていくという

感じです。

相手に悪意があった、無かった、どちらで受け止めるかの違いは、

それ以降の関係に大きな違いをもたらすと思います。

これは部分的なことですが、自分の日常すべてに関して

「すべて良きもの」という前提から受け止めていくと、

出来事の解釈もより肯定的なものとなり、以降の展開も

より良いものになると思います。