日々是好日


一日一日はみな善き日です。

仏様の眼からみればそうなのでしょうが、

私たちの目からは、どうしても良い日、悪い日があります。

出来事に対し、物に対し良い悪いという分別をする習慣を

みんな持っています。自然としてしまいます。

ですけど、この分別、取捨、意味づけを離れて見てみると

そこには「日々是好日」の世界が広がっているということです。

「好日」といいましても、晴れも曇りも雨も雪も嵐もみんな

あります。

そこに居られる、拒絶せずに受け入れられる、

状況に安住できると「好日」になります。

今目の前のこと、出来事、状況にNOと言う、

拒絶する、受け入れられないときに「苦しみ」が生じます。

今の様子に、出来事に、状況にNOと言わないには

どうすればいいでしょうか?

一つには、分別を離れていく方法、それは坐禅の道だと思います。

一つには、生活全てをはじめから信頼しきる方法、こちらは

南無阿弥陀仏に通じる道でもあると思います。

日常の生活すべてを信頼できるでしょうか?

信頼し、委ねるということができるでしょうか?

金子みすゞさんの詩「蓮と鶏」です。

   泥のなかから
   蓮が咲く。
   それをするのは
   蓮じゃない。
   卵のなかから
   鶏(とり)が出る。
   それをするのは
   鶏じゃない。
   それに私は
   気がついた。
   それも私の
   せいじゃない。 

蓮も鶏も人も自分の力で生きているようで

実はそれ以前といいますかその背後にある

大きな力によって生かされている、大きな力が

働いている、そうゆう内容の詩だと思います。

この力は、人智を遥かに越えた、調和のとれた

信頼するに足る力、働きだと思います。

自分の生活の背後には、大きな、確りした、

調和のとれた力がいつも働いている、と信じ

一見受け入れがたいことでも、自分にとって何らかの意味、学び、

必要性があるのだと思い受け入れていく、そうしていくことによって

信が深まり、日々は皆佳き日と大きな肯定に通じていくことになる

と思います。