私とは、渡し船の「渡し」のようなものだと思います。
こちらからあちらへ渡す、その道管、門、変換機のような
ものだと思います。
こちらとは、見えない世界、いのちの世界。
あちらとは、目に見える、外側、知覚される世界。
わたしとは、いのちが顕れる場、だと思います。
わたしを通していのちは現れる。形となる。
わたし自身も命の顕れたものです。
そのわたしが、命を今知覚している世界へと変換している。
表現を変えると、世界を作っている、創造しているということです。
宇宙、太陽、月、地球、山、海、人、動物、植物、鉱物
様々な人工物、思考、感情、意志、悲しみ、怒り、喜び、至福・・・
善悪、損得、浄不浄、上下、聖凡、正邪、有無、生死・・・
あらゆるものは命のあらわれたもの。命そのものです。
外も内もその間の私も、みんな命です。
命を顕わすとき、わたしは何もする必要はありません。
何もしなくても、きちんと命は現れていきます。
すべては完璧です。何もしなくて大丈夫です。
人をはじめ すべてのものは、命という智慧の海、調和の海に
どっぷり浸かっています。信頼しきって、委ね切っていい
所にいます。
ですが信頼できず、何もしないでいいわけがない・・・
そうゆう思いで生きることになります。
そこで自我が生まれます。何かをする人が生まれます。
苦しみがうまれます。自我が原因と気づきます。
自我を取り除こうとします。自我は形のない、
観念ですから、取り除くということは難しいです。
自我を無くす一番の方法は、
行為者は居ない、ということにはっきり気づくことです。
自分は何もしていないのに、世界はこうしてちゃんと在る、
何もしていないのに、世界は完結している、出来上がっている
と気づくことです。