南無阿弥陀仏


私は曹洞宗ですので、南無阿弥陀仏をお唱えする浄土宗、

浄土真宗の方とは受け取り方が異なるかもしれませんが、

私なりに思うこと書きたいと思います。

南無阿弥陀仏の「南無」は帰依する、委ねるということ、

「阿弥陀仏」は、仏様の名前です。インドのことばで

アミターバー、意味は無量の光、永遠の命だそうです。

「無量の光、永遠の命」 は、私たち一人一人のことでも

あると思います。阿弥陀様を信頼します、委ねます、

と同時に、自分自身を信頼し、委ねますということでも

あると思います。


私たちは自分の力で生きているのでしょうか?

ものが見えたり、聞こえたり、心臓は休むことなく働き続けて

くれています。体中の他の器官も働いてくれています。

人はたった一つの細胞から、分裂を繰り返し、60兆個の

細胞になるそうです。しかもそれはみな同じ細胞ではなく、

それぞれ異なった機能、役目をもった細胞です。

人はこれらのことを、自分の力でやっているのでしょうか?

人間は、最先端の科学技術を以ってしても蚊一匹、蟻一匹、

命をゼロから創り出すことはできません。

命は人智を遥かに越えています。その人智を遥かに

越えたものが、私たち一人一人でもあるわけです。

人は日々、努力、奮闘しながら生きていますが、

その活動の背後には、明らかに大きな力が 働いています。

天体の運行、原子の中の動きにも規則性、秩序、調和があります。

生命の神秘、自然界の不思議、人のこころの不思議、

それらを思いますと、これらの背後に働く大きな力は、

知性、智慧、妙智、そのようなものでもあると思います。

阿弥陀仏とは、無量の光、永遠の命とは、

この大きな力、働き、智慧のことだと私は思います。

「私」と呼ばれるものの本質もまた、この大きな力、働き、智慧

のことだと思います。

南無阿弥陀仏 とお唱えすることは、自分自身の本質に繋がって

生きますという宣言でもあると思います。

また、南無阿弥陀仏 とお唱えすることは、自分自身の本質に

繋がる道、方法でもあると思います。

私たちは、その本質とは分離して生きてしまっています。

本来は繋がっているのですが、個としての自覚しかありません。

仏様と一つ、同じとは思っていません。分離は分別、思考が原因です。

ひたすら唱え続けることで、思考停止状態をつくり、思考以前の

本質につながるという仕組みだと思います。

坐禅の道もすばらしいと思いますが、

南無阿弥陀仏の道もすばらしいと思います。

門徒さんと呼ばれる真宗の信徒さんは「仏様の言葉」という詩や、

「ないものを欲しがらずに、あるものを喜ばせてもらおう」

というようなすばらしい言葉を沢山残されています。

南無阿弥陀仏 とお唱えするだけで、自分の本質に繋がるという

誰でも、いつでも、どこでもできる、おそろしいほどシンプルな

教えです。

一人でも多くの人がこの南無阿弥陀仏の教えに共鳴し

広まって行けばいいと思います。