只管打坐


ただ坐るということ。

今の様子のまま、ただ、在る。ということ。

意味づけをしないで、ただ、在る。ということ。

「今ここ」は、ただ、何もしていないのに、ただ、在ります。

人の計らい、作為以前にある様子が、「今ここ」です。

初めから在る、自ずからなる様子に、ただただ在る、

在りつづける。

そこがもう安住の地。

初めから安住の地にいながら、安住の地を外に求めて

しまっている。それが私たちの迷いの様子。

初めから在る、今ここ、

という安住の地に居続けることによって、

あ~なんだ、このままで良かったんだと

気づくための行を、臍落ちするための行を、

只管打坐という言葉で表しているのだと

わたしは思っています。