塞翁が馬

あるところに塞さんというおじいさんがいました。

塞さんはとてもすばらしい馬を飼っていました。あるとき大切にしていた

その馬がいなくなってしまい塞さんはとても悲しみます。しかししばらくすると

その馬がすばらしい馬を連れて帰ってきました。塞さんはすばらしい

馬が二匹になりとても喜びました。それからまたしばらくしてからのことです。

塞さんの息子が新しく来た馬から落ちて腰の骨を折り、歩けなくなってしまいまし

た。塞さんも息子さんも悲しみました。それからしばらくして塞さんの住んでいる

地域でいくさが始まりました。回りの若者はみないくさにかりだされ、

帰ってくるものは誰もいませんでした。息子は歩けなかったのでいくさには

行かずにすみ、命を失わずに済んだというお話です。

災厄が状況、条件が変わることによって福となり、福がまた状況、条件によって

災厄となっていくお話です。

ある事態が状況、条件によって幸・不幸となるということは、ある事態そのものは

幸でも不幸でもない、意味づけ、価値づけ以前のいはば中立・中性の状態で、幸・

不幸を決めているのは人のこころということです。これはある事態、出来事だけ

ではなく人を含めた全てのものにもいえることです。人を含めた全てのもの、行為、

出来事そのものは、もともと意味づけ、価値づけ以前の状態にあるということです。

意味、価値はすべて人のこころが創りだしたものです。

ここはとても大切なところだと思います。

何にために生きるのか?生きる目的は?と人は問います。ここで間違えてはいけない

のは、生きること以前に意味が存在しているのではないということ、生きることが

あってその上に意味が生まれるということだと思います。

自分自身を肯定することが出来ない、自分をだめな人間と思ってしまう、

生きていてもしょうがない人間だと自己を否定し苦しんでいる人は今の時代

多いのではないかと思います。それは意味の世界は自分が創り出している

ものなのに、逆に意味の世界の中に自分を位置づけてしまっているということ

から来ていると思います。

自らが作ったもので自らが縛られ不自由になっているということだと思います。

自己はもともと良い悪い、価値の有る無し、凡聖、優劣など意味・価値を

産み出す源(三界唯一心、三界唯心造)で、それらの付着の余地はない

ものです。(六根清浄)