天の上にも天の下にも、この広い世界の中で、唯我のみ独り尊い。
お釈迦様は確かに大きなお方ですから、このような意味でも良いのかも
しれませんが、やっぱり何か違和感を感じます。
わたしは以下のように思います。
この広い世界にいるのは、唯我のみ、
この世界は、わたしそのもの、
この広大な世界の中に70億の人がいるのではなく、
一人一人の中に、この広大な世界がある。
お釈迦様だけでなく、一人一人の人が、世界そのもの。
まったく異なる世界、完結した世界をそれぞれ生きている。
「三界唯一心」ですとか「三界唯心造」という仏教の言葉があります。
この世界はただこの一心、この世界はただ心のつくりだしたもの。
「唯我」とはこの意味だと思います。
独は、一人の意ではなく、相対的なものでない、絶対ということ。
尊卑という対のある尊ではない、尊ということ。
一人一人は、それぞれ誰にも侵されることのない、完結した独自の世界
を生きていて、それは唯々尊いということ。
このように表現すると、個々別々というふうに感じてしまうかも
しれませんが、個でありながら全て、「一即一切」として
分離のない、繋がっている不思議な世界を私たちは生きています。
この天上天下・・・は、人の本当の様子を表した言葉だと思います。
たった一つの命が、お釈迦様として、一人一人の人として、動物、微生物
植物、小石、太陽、月・・・あらゆるものとして現れている、また一人の人の
上に起こる、喜び、悲しみ、怒り・・・あらゆる様子としても現れているのだと
わたしは思います。
法華経の「法の華」とは、法という命が様々なものとして顕れた様子、
様々な形として花開いた様子のことだと思います。
この華開いた「今ここ」の 一瞬の様子が、唯我独尊ということだと思います。