人にも物にも出来事にも、もともと名前も意味も
ついていません。人が言葉を使って付けています。
人とは?生きているとは?世界とは?みんな自分で
答えを出さなくてはなりません。
その時参考になるのが宗教だと思います。
宗教には、真実、本当のことが示されていると思います。
それは、知的に理解するものではなく、
心で自ら感じ取るものだと思います。
各宗教には、教義、経典があります。その内容は、
膨大です。書を読み、講義を聴き、一生かけても
学べきれない量があると思います。
ですけど、その膨大な量の内容は、生まれたときから、
その人の心に、命の中に、全部備わっていると思います。
一人一人の中に、始めから備わっていると思います。
今の時代は証明できること、目に見えはっきりと
確認できることしか信じない、受け取らない、そんな
傾向、風潮があると思います。
ですから、宗教という証明できないものは、距離を
置かれてしまうのだと思います。
また、宗教の名のもとの対立、紛争、新興宗教の
様々な事件、教団内の虐待・・
ますます距離を置かれてしまうニュースばかりですが、
それでも今の社会を、人の心を良い方向へと導く力が、
各宗教の中核にはあると思います。
人にも物にも出来事にも、もともと名前も意味も
ついていない。ということは何も決まっているもの
がない、ということです。良いとか悪いとか、
正しい、間違っている・・混沌とした状態が、原点に
在ります。その混沌に秩序を与えているのが、
仏教では戒だと思います。
この混沌に秩序を与えるものが、キリスト教では
十字架だと言った方がいました。
白紙の上の一点の位置を説明することは難しいですが、
X軸Y軸の座標軸をつくれば簡単に点の位置は示せます。
この座標軸が十字架です。秩序の象徴ということです。
この話を読んだとき、わたしは妙に納得しました。
私が、宗教で不思議に思うことです。
イスラム教、天理教、成長の家、大本教・・・
みな自動手記、お触書、チャネリング・・・
そうしてもたらされた原典、教えです。語っている人は
姿かたちを持たないどなたかです。そのことに、違和感があるわけでも
教えそのものに違和感があるわけでも、否定するつもりも全く
ありません。ですが、イスラム教などは世界の三分の一の人が
信仰している宗教です。それだけの人が、内容はもちろん
すばらしいのですが、不思議な現象をもとにもたらされている
内容を信仰しているということが、わたしには不思議です。
チャネリングという現象は、そんなに多くの人にとって
自然に受け入れられているのでしょうか・・・