臨済宗に夢窓国師という方がいました。
人が福徳を得るということについて、短いお話を残されています。
短い説話に一言コメントをつけるというようなお話です。
お釈迦様がご在世のころ、あるところに長者夫婦がいました。
昔は沢山の蔵には財宝がいっぱい詰まっていましたが、
今ではその勢いも衰え、食べるものにも苦労する有様でした。
何かお金に換えられるものはないかと二人は空っぽの蔵に行き
一つの枡を見つけました。それをお米五升と変えることができました。
あ~これでしばらくは食べ物の心配をしなくて済むと二人がほっと
しているところに、お釈迦様の弟子の舎利弗が托鉢に来ました。
二人は、お米を一升喜捨しました。それから阿南尊者、目連尊者・・・
と次々に来られて結局お米は全部喜捨してしまいました。
あ~こんなことならお米を少し残しておけば良かったと奥さんは後悔
しましたが、ご主人さんはお釈迦様のお弟子さんに喜捨できたのだ
喜ばなくてはといって、まだ何か蔵にあるかもしれない、探してみようと
言って二人は蔵に行きました。
そうしますと沢山の空っぽだった蔵は、満々と財宝で満たされていました。
この説話に夢窓国師が一言、コメントされますには、
この長者夫婦が福徳を得たのは、布施の功徳ということですが、
さらに詳しく言えば、長者夫婦に損得のこころが無かったということにある。
と言われています。
このお話では財宝という物質的な豊かさでしたが、心の豊かさ、平安・・
そうしたものも同じだと思います。
損得、善悪、真偽、幸不幸・・
そうした取捨、分別、思考を離れることによって
物心両面の豊かさが備わってくると思います。
正確には、豊かさは始めから充ち満ちていたと
自ら気づくことが出来ると思います。
余談ではありますが、
この空っぽの蔵が財宝で満たされていたという所は、
「空」の説明、象徴でもあるように思います。
空とは、実体として認められるものはない、
無いながらに有る・・と説明が難しいですが、
わかりやすく言うと、自動車のニュートラルの状態、
何速にもなる状態、何にでもなれる状態という感じです。
あらゆるものに成れる、可能性の状態ということも
できると思います。
「何も無いところに、あらゆるものが現れている」という空を
「空っぽの蔵に、満ち満ちた財宝」と表現しているようにも
思えます。