脚下照顧

 

お寺の玄関や本堂の入口でよく目にする言葉です。修行僧が自分自身に目

を向けずにいたずらに外に向かって真理を追い求めることを戒める言葉です。

自分自身に目を向け、「<自己>とは、大きい小さい、聖凡、善悪、価値の

有無などの枠に収まりきれない、比較のしようの無い、自由な、とてもすばら

しい存在」ということに気づいて下さいというのがお釈迦様の教えです。  

 このもともとの意味の他にも、いくつかの意味がくみとれます。  

脚下つまり現時点、<今>ということです。私達は過ぎてしまったことやこれ

から先のことに目を向け、今をおろそかにしがちです。よそ見しないで今に目

を向けて下さい、今を大切にして下さいというメッセージも脚下照顧には込め

られていると思います。過去・現在・未来といいましてもあるのは今だけですし、

過去のことをいくら悔やんでも悔やむだけでは何も変わらず、今何かを為して

はじめてその穴埋めもできるでしょうし、未来のことを想うだけでは何も変わらず

、今為すべき事を為してはじめてその結果が未来につながるわけですから、

いずれにしても<今>をそのときその時を精一杯生きるしか無いと思います。

 そしてもう一つ。脚下つまり自分の立つ地点、自分を支えてくれているもの、

言い換えますと「今の自分の生活はどんなお蔭の上に成り立っているのか

に目を向けて下さい」、とも受け取れます。この世に生を享けてからこれまでの

間には、お父さん、お母さん、兄弟、友人、見ず知らずの人々、動物、植物、

おてんとう様、お月様などこの世に存在するものの無数のおかげがあって

はじめて今の自分の存在が成り立つということを忘れてはいけないと思います。

これらの事を思う時、普段私達は「自分の力で生きている」、「この命は自分の

もの」と思ってしまいますが、「生かされている」或いは「命は与えられたもの」

という受け止め方が本当ではないかと思います。沢山のお蔭があってはじめて

生きてゆくことが出来るという事を確りと受け止めることは、自己中心的な思い

・行為を抑え、ありがとうございますという感謝の気持ちや謙虚さを生み、連帯・

みんなと繋がっていると感じられ孤独・孤立化からも救われます。

  因みに大人一人が一年間生きてゆくのに必要な食べ物は、鱒に置き換える

と300匹/年だそうです。さらに一匹の鱒は一年間に300匹のカエルを、一匹の

カエルは一年間に300匹のバッタを食べるという計算になり大人一人は一年

間生きてゆくのに2700万匹(300X300X300)のバッタの命を頂いていることに

なります。2700万匹のバッタは一年間に1000トンの草を食べるそうです。

 また、一人の人が誕生するには必ず両親がいます。その両親にはそれぞれの

両親がいます。三十代遡ると2の30乗で約10億の祖・・・祖父母が一人の人に

いる計算になります。信じられない位沢山の命との関係の上に、今の自分があります。