芥川龍之介のお話について、思うこと書きます。
わたしはこのお話は、自分だけが・・・という
自己中心的な思い、行為は、結果自分を苦しめること
になるということがテーマかと思います。
「カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすれば
よかったのでしょう。?」
自分も他の人も別のものでありながら、一つのもの
でもあると気づくこと、このお話で言えば、
自分の糸だと言って、他の人を排除しようとしなければ
良かったのだと思います。
もちろんそれは私たちにとっては難しいことだとは
思うのですが。
「カンダタはどのようにしたら救われるのでしょうか?」
天国とか地獄とか、善と悪、自と他・・そうゆう相対的な
考えで世界を見るのを止めることだと思います。
そうゆう見方をしてしまう眼鏡をかけているのに、
掛けていることを忘れた状態に私たちは在ります。
この世界にもともと天国も地獄もありません。
人の意識が言葉と意味を使って作り上げています。
言葉と意味の世界以前に、一歩手前に本当の世界が
一つの世界が、平等の世界が広がっています。
そこに気づくこと、それを感じること。
そうすれば、地獄は消えます。天国も消えます。
助かる、助からないという以前に私たちは救われた世界にいる
ということで、それに気づくということです。
このお話で最後お釈迦様が悲しいお顔をされ、ぶらぶら
歩いて行かれた、とカンダタがまた地獄に落ちてしまっても
あまり気にも留めなさそうなのは、基本的には救われている・・・
そうゆうところから来ているように思います。
天国も地獄もお釈迦様の垂らした一本の糸で繋がっています。
カンダタも下にいる沢山の人も一本の糸で繋がっています。
天国と地獄、カンダタと下の人、自分と排除される人、
対になっていますが、繋がったものとして表現されています。
「対立、分離という相対的なものの見方は、苦しみをもたらす
ということ、救いはそうした見方を離れ、みんなひとつ
でもあるということに気づくところにある」ということを
表現しているように思います。
カンダタが悪いことを沢山したのは、カンダタ自身が悪い人
ということではなく、対立、分離するものの見方、
相対的なものの見方をしていたことが原因ということでも
あると思います。
相対的な思考、分析的な思考は、確かに必要なものでも
在ります。ですけれど、分割、区別、差別されたものは、
同時に等しい、一つのものというイコールで繋がる面に
支えられているということを 忘れてはいけないと思います。