仏教の修行と呼ばれるものは、みんな思考を離れるためのもの
ということが出来ます。
坐禅は、呼吸に集中したり、数を数えたり、ただ今ある様子に
成りきります。心の中のお喋りを、思考を止めることになります。
公案も、通常の思考では答えられないことを考えることによって
思考を止めています。
作務と呼ばれる、掃除や畑仕事などの作業も目の前のことに
集中し、効率や結果に重点を置くのではなく、如何にそのものに
成りきるかに重きが置かれます。行為そのものになろうとする
わけですから、思考の入る余地は無くなります。
お経を読んでいるときも、読んでいるわけですから、
思考できません。
南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経のお念仏、お題目も
お唱えしているときは、思考の入る余地はありません。
みんな考えを離れるように出来ています。
祖録にも「須らく見を止むべし。」とあります。
見(けん)、物の見方、考えを離れて下さい。ということです。
何故、「考えを離れる」なのか?
私たちは言葉や意味を使って、概念化し、世界観を持ちます。
そうして作られた考え方、見方で様々なものを解釈しながら生活を
しています。
普通に私たちが思っている世界は、考え方でつくられた世界で、
本当の世界ではないのですが、いつの間にかそれを本当の世界と
思い込んでしまっています。
馴染んだ思考パターンを繰り返し使う限り、その誤りには
気付けません。ですので、あらためて 心が直に事実に気づく、
本当の様子に気づくために普段の思考を一旦止める、離れることが
必要になるということです。
坐禅や公案や念仏を勤めることも、日々の自分の仕事を精一杯、
一生懸命勤めきっていくことも、全く同じだと思います。
できれば、朝晩一五分くらいでも、毎日静かな時間を持ち、
お経を読んだり、お念仏を唱えたりし考えを離れる時間を
持たれるといいと思います。
考えを離れていくと、その分「感じる」という面が鋭くなると
思います。大切な気づきが増えると思います。
考えることを通してだけではわからないことも、感じられて
くると思います。