お釈迦様には摩迦槃特(まかはんどく)と周利槃特(しゅりはんどく)
という兄弟のお弟子さんがいました。お兄さんの摩迦槃特は物覚え
の良いとても優秀な方でした。一方、弟の周利槃特はお兄さんとは
反対で物覚えのとても悪い方でした。自分の名前も忘れてしまう程で
いつも首から名前を書いた札をぶら下げていたそうです。
ある時、周利槃特はお釈迦様に「わたしは物覚えが悪く、
教えもすぐに忘れてしまいます。どのように修行したら宜しいでしょうか」
と困り果ててお尋ねになります。そうしますとお釈迦様は「よろしい。
それではあなたは自分の身の回りをひたすら掃き清めてゆきなさい。」
といって箒を渡されました。それ以後、周利槃特は朝から晩まで
暑い日も寒い日も毎日ひたすら箒で掃き清めてゆかれたそうです。
おかげで周利槃特の住む町は塵ひとつないきれいな町になった
ということです。そしてそれからしばらくして、周利槃特は優秀な
お兄さんより先にお釈迦様の教えを確り自分のものにされて
阿羅漢(一切の煩悩を断ち、完成した人。仏弟子の最高の聖者)
という仏様になられたというお話があります。周利槃特が賢明な
摩迦槃特よりも先に阿羅漢となられたのは、周利槃特が
奇麗・汚い、役に立つ・立たない、そうしたことから一切はなれて、
一生懸命一生懸命掃きつづけ、掃くことそのものに成りきった
ことにあります。坐禅というと、薄暗いところで静かに座っている
そうゆう姿を思い浮かべることと思いますが、内容的には
周利槃特が行ってきたこととまったく同じことです。
良い・悪い、ほんと・うそ、美しい・醜い、好き・嫌い、損得等
意味、価値、分別そうしたことから一切離れて、目の前のこと、
その時その時のこと、一呼吸一呼吸、それぞれの問題意識に
なりきってゆくことが坐禅ということです。
祖録に「すべからく見を止むべし」という言葉があります。
見(けん)とは、ものの見方、考え方、意味、価値、分別です。
そうした考え、思考、観念から離れてください、ということです。
私たちは極々自然に、今目の前の様子、出来事に、名前を付け
意味づけし、解釈し、言葉で説明していきます。概念化をします。
それは悪いことでも、不要なことでもありませんが、
概念化によって、今の事実の本当の内容を見失ってしまいます。
ですので一時、考え、思考から離れて、そのものに成りきって、
本当の様子に気づいてください、感じ取ってくださいというのが
坐禅ということです。
静かに坐っていなくても、何かをしている時でも、考えを離れ、
ただただ一生懸命そのことを成せば、それも立派な坐禅です。
良いとか悪いとか、損得、浄不浄など分別、意味づけをせず、
とにかく今目の前のことを一生懸命為す、そのことで、
考えただけではわからないことを、ますます心は感じ取り、
気づきとってくれるようになります。