執着というのは、「固定化すること」というとわかりやすいと思います。
~はこうゆうもの、~は必要、~があると決めつけることです。
一番大元の執着は、「自分がある」という固定観念です。
これを無明と呼びます。ここから、貪瞋痴の三毒が生まれます。
貪(とん)とは、貪欲、むさぼりです。
瞋(じん)とは、怒りです。
痴(ち)とは、道理にくらいということです。
「自分」を認めます。そうすると「他」が生まれます。
自分と他人の比較が始まります。人より下、劣っているのは嫌だ。
競争が始まります。自分より上がいる。嫉妬、恨みが生まれます。
見下された・・・憎しみ、怒りが生まれます。瞋です。
自分のもの、所有が始まります。もっと沢山という想いが生まれます。
貪欲です。
もっともっと手に入れるため、もっともっと働きます。
必要以上に働いて、必要以上のものを作ります。必要以上に
作ったものは不要となりゴミとなり、捨てられます。
資源も無駄になり、枯渇します。必要以上に働いて、疲れて
心身ともに余裕をなくします。ぎすぎすして人間関係も悪くなります。
疑い、不安・・こころは曇ります。
無駄をつくり、大切なものを自ら損ないます。痴です。
最後は死を迎えます。自分が無くなる、怖れが生まれます。
自分を認めると、自分に様々なものがついてきます。
執着が執着を生みます。
思想、地位、名誉、学歴、財産・・・それらを守るため
争いが生まれます。
自分を認めたところから、確かに様々な問題が生じます。
逆に言いますと、自分を認めるのを止めると様々な問題も
消えるということになります。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。」
という道元禅師のお言葉があります。
自己とは何かをはっきり見極め、自分という中心になるものは無い、
他と分離したものは無いと気づくこと、それが仏道であり、
様々な問題を根本から無くしていく道であるということです。
執着を別の言い方でいいますと。
人が知覚しているものは、みんな生じては消えていきます。
見たものも、聞いたものも、味わったことも、感情も、思考も、意志も・・
本来は消えて、リセットされ、いつも新しい、新鮮な状態に、
「今」はあるわけですが、そこに終わらせないもの、変わらないものを
作り続けることを、執着と説明することもできると思います。